孤独感に滲む人間味、人間性を念頭に置いた上で、
深層心理学への考察や紹介を行っていくサイトです。

フロイトの孤独と精神分析

神経症の臨床から、児童心理学まで。
心の病に対する研究と密接に誕生し、発展を遂げた学問が、
初期の精神分析です。ここに培われた実践的研究はやがて、
児童心理学としての特徴をも含有してゆきます。
 寂しくて、悲しい。でも、どこか温かい。 傷ついた心の軌跡、精神分析学
               ――フロイトの人生模索と共に始まった、心を知る為の研究に触れよう!
 今日、心理カウンセリングで知られる代表的な研究方法と治療体系一つである、
 “精神分析”とはフロイトによる、神経症の治療とその洞察によって開始されました。
 目に見えず、複雑な深層心理世界の立証を彼は医師の立場から試みたのでした。
 この取り組みが困難であるのは何といっても、研究対象が物ではない可視化不能な点”です。
 従って、シャーマニズム的言語ではなくあくまでも現実事象として、
 これらを科学的に捉えていくためには、“概念化”への並外れた熱意が欠かせませんでした。
 目に見えないものとの真剣な語らいは非常に根気の要る研究活動でしたから、彼の口を出る、
 “独特の言語的表現”とはともすれば近寄り難き、変わり者の思想に映ることもありましょう。
 言うなれば、それ程に概ねだとか平均的な感覚では計りきれない、おぞましくも悲しい、
 人間にとってのもう一つの事実が、私たちの裏側には共にあるわけなのです。
 この解明のためにもフロイトは自身の孤独とも、向き合うことを充分に要された人物でした。
 このサイトではフロイトの孤独を導入部として、彼の突き詰めた学問の考察に取り組みます。
 どこからお読み頂いても構わないのですが、フロイトについての記載を入り口として、
 専門領域へと徐々に読解を広げていきますとより、内容を掴みやすくなるのではないでしょうか。
  孤独と向き合うというのは私が私に出会う旅であり、
  その私が私でもって初めて、私以外の“現実の他者に出会うため”の、
  必須概念(出発点と帰着地点)にあたるものではないだろうか。Sumi
 

孤独を見据える眼とは?   フロイトを受け継ぐ者
おじさんは寂しかったのかもしれない?(吉田兼好とフロイト)
このサイトではフロイトの精神分析、人物像を通して、
“傷ついた人々の精神”にも呼びかけを行っています。
昨今、様々な孤独の形を見かけます。 街を歩けば賑わいの中に見出せる多くの孤独たち、即ち、 それぞれの人間たちが明るさに隠れて抱くものもあれば、個人としての純粋に見つめ抜く孤独もあります。 その一方で、この点について言及すれば、その途端に慌てて己より孤独を放り捨てようと動作し始め、 近くの他者に向かってはそれをなすりつけてみたり、自分は孤独ではない!等としきりに強がる者もいます。 実は、「打ち消し」「投影」「置き換え」といった各種の防衛機制がここに働いています。 言うなれば、恐怖に対する反応が非常に密接に関連しているのですが、 残念ながらこの手の感情に留まってしまうばかりでも、人の持つ、 孤独の存在意義を井の中に閉じ込めてしまうばかりなのです。
・ 人間が酸素を吸うのと同じく元来、孤独もまた必要なものなのです。
・ 孤独に陥らないことも大切ですが、いつか、私たちは知らねばなりません。
・ 己の孤独を咄嗟に放り捨ててしまおうとする、
  その態度姿勢程に孤独なものはないことを。


かのフロイトの人生を振り返る時、そこには、多くの孤独な心が滲むことでしょう。
そのことに慰めを見出す人もあれば、片や、ほくそ笑む者もあるやもしれません。
後者は、「自分は、こんなふうにはならないぞ!」と声高に強調し、英雄じみた気持ちを密かに味わいもするのでしょう。 しかしながら、こんなふうになろうともならずとも、
何よりも、孤独より始まって終わるのが人間です。
「何も、そんなに慌てる程のことはないのに。」って、私は思いますφ(゚-゚〃)
これは、私が、誰よりも秀でて超人じみた強い精神の持ち主であるがためではなく、
私もまた、寂しさの中に生きる一人でもあると心するが故の共感性の表れです。
《 プロローグ 》

私は、精神分析の擁立について、その創始者たるジクムント・フロイトの個性を中心にして考察、検討を行っていきました。
彼について調べれば調べる程に私の中では、ある一筋の思いが鮮明になっていきます。
この思いに対する言及を寸でのところで避けていては、もはや、精神分析学の要に触れることはできないのではないか?? 私にここを決断をさせる程に痛烈でありながらも、同時にとても質素で厳かなある概念、これが「孤独」でした。
私にはどうしても、無意識を発見した、かの偉大なる心理学者フロイトから「孤独」といわれる、 彼の内面の動きそのものを切り離して捉えることができないのです。

ところで、今、私が精神分析の発芽や育成のプロセスについて精神的に追っていく折には必ず、 私に、日本のある古典と並べた形での想起が衝動されている点について述べておきます。
それが、吉田兼好の「徒然草」です。
「マンガで読む古典」という番組(であったかと思います)中、かつて、徒然草がテーマに取り上げられた際、 次のような書評を聞いた私は、そのコメントに対して妙に納得してしまった記憶があります。
それは、「結局はね、(執筆者兼好)おじさんはとっても寂しかったんだよ〜〜。」といったものでした。
片や、精神分析の擁立を知れば知る程にフロイトに向かっても、私の中に同じコメントが響き渡るのですから不思議です。

“寂しさのエネルギーでもってしても発展を方向づけられていったのが精神分析である”と考えるのは、 紐解いていった資料の内容によっても明らかなことでした。

ここに思い至ってしまえば何も精神分析の一分野に限らず、私には、 この世のありとあらゆる発展において一役買っているものが、 人間の寂しさであると考えるのがとても自然なことになりました。
もちろん、フロイトや周囲の人間たちの孤独を省いたところにある、純粋な能力の存在感だって無視出来ませんし、 私も、寂しさだけが、精神分析の全てを発展させたとまではさすがに申し上げることはしません。 しかしながら、人と繋がることに器用なようでいて実際には不器用だったフロイト像が、 どうにも切り離せないのが精神分析学に対する考察なのです・・・。

ウン・・・。おじさんは寂しかったのかもしれない。どこか、人間は寂しいのかもしれない!
誰しもが完全や永久に満たされることのない器を持っていて、しかも、これが私たちを動かしてもいるらしい。 つまりは時代をも、作っているらしい。そんな人生のもう一面がほんの少しは見え始めた30代前半、 私は、このサイトを立ち上げてみたくなったのです。
フロイトの孤独のみを語るサイトに留めるつもりはありませんが、 「孤独」というヒューマニズム的な切り口を敢えて省かない、ここに製作者側の思いと言いますか、 何かこうフロイトに向けた、一種の敬意の表明を配置しておきたいのです。
「精神分析擁立と育成に費やされたエネルギー」が、フロイトの中に最も蠢いた時期と人生の分岐点となる40代(前後)という、 彼個人によるライフステージの変遷とは双方に関わりも浅くはかなったようです。

「徒然草」の記した当時、吉田兼好もまた、47歳あたりの自分を過ごしておりましたとさ♪

参考文献
「精神分析的カウンセリング」
 中西信男、葛西真紀子、松山公一
「現代の精神分析」小此木啓吾 「徒然草 (NHKまんがで読む古典) 」  吉田兼好、しもがやぴくす、保土ヶ谷うさぎ、みらい戻
いつまでも現役でいるわけにはいかない、それは、偉大なる研究者にとっても同じことです。
晩年、年老いた彼の隣で共に心理の道を歩んだのは娘のアンナ・フロイト(自我心理学)でした。 父親の打ち立てたそれまでの概念に対し、日常的な色づけを加えたアンナはその後、児童心理学としての体系づけにも着手してゆきます。
彼女の代より、孤児院での研究や実験についても開始されたのでした。
また、父フロイトが心理的にどうしても踏み込めなかった母親像への批判、 この方向性からの、研究や発達問題に向かっても果敢に取り組んでゆきました。
対象関係論の創始とされているメラニー・クラインとは対立的立場にありましたが、 その一方で――こちらの方が知られているかもしれませんが――、フロイトやクラインの知見に批判を加える形で広く、 彼女の研究も発展していったのです。 同体制下での分派にはフェアバーンやウィニコット、エリクソンらが有名ですが、 もはや別分野としての統合に至ったアドラーや、ユングの研究についても、 精神分析からは切っても切り離せない関係にあります。
従って、精神分析学とはフロイト個人の研究(古典的精神分析)のみを指すのではなく、 広義的には発達心理学にまで及ぶ、果てしない知見の一体系を指しているのです。

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・はじめにお読みください。 ・孤独とは、何者だろうか? ・精神分析学の理論を学ぶ。 このサイトは、リンクフリーです。

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       よみかたの手引き


あなたは、人間一人の人生に何を見出しますか?? もちろん、この問いの扱いに象徴されるのは何よりも、自身に向けた態度であると思います。
そして、当の私たち人間はどこに向かって人生の歩を進めているのでしょうか。 古今東西、ここに死を配置する者は後を絶ちません。 自分という精神の戦場、そこから抜け出そうとする焦燥感、 若しくは、それを通り越して感情を鈍磨させる程の諦めの衝動等、 人間は、生まれたときから死に向かってエネルギッシュに歩き始める存在であるとも言われます。 しかし、同時に「愛」と呼ばれる全体的な概念の実際、これもまた、この先に待ち構える究極の領域なのです。
私たちは「愛」と「死」に導かれ、日々、生命の限りを尽くします。

この営みが、別離の悲しみをも体験させるのです。人は大切な者同士であればこその、別れというものを経験します。 ここに登場するフロイトの人生が、まさにここを示唆しているのです。
こうした時期には自暴自棄にもなり、時には自殺、ストーキング問題、傷害や殺人事件を招きかねません。 しかし、惨い、別れの瞬間には誰もが信じられないことですが、個々人における精神の本質とはいずれ、相反したところで同じ目的地に辿り着くものなのです。
どうぞ自分や他者の精神に迫害を与えるのでもなく、或いは不安から逃げ出すために誰かを神格化して、 結果、自らの期待による裏切りに再び傷つけられることなく、 かの偉大なるフロイトでさえ埋められなかった、心の空ろにほんの一時、思いを傾けていってみてはいかがでしょうか。
         
フロイトの学問を通してこのサイトでは、傷ついた人々の精神にも呼びかけています。

澄美 《連絡は、問合せ から》
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