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孤独を見据える眼――彼から、何を見出すか?ところで、この点に言及する際にはしばしば慌てて、孤独を己より放り捨てるように動作し、 近くの他者にそれをなすりつける、そうした響きの鮮明な発言に至る者がいます。 投影という防衛機制の働きが関連するのですが、 残念ながらここに留まってしまうことには、意味を井の中に閉じ込めるようなものです。 元来、人間が酸素を吸うのと同じく、孤独もまた必要なものです。 もちろん、孤独ではないものも必要ではありますが、 孤独を放り捨ててしまおうとする態度や姿勢程に孤独なものはありません。 フロイトの人生を振り返る時、そこには、多くの孤独が滲むことでしょう。 そのことに慰めを見出す人もあれば、ほくそ笑む者もあるやもしれません。 「自分は、絶対にこんなふうにはならないぞ!」と、そんなふうに思う者もあるかもしれません。 しかしながら、こんなふうになろうともならずとも、人間は孤独より始まるのですから、 何も慌てることはないのかもしれませんね。 精神分析擁立を辿る―おじさんは、寂しかったのかもしれない。 《 プロローグ 》精神分析の擁立についてはその創始者たる、ジクムント・フロイト医師の個性を中心に考察、検討を行いました。 ところで、彼について調べれば調べる程に私の中で、ある思いが鮮明になってゆくことに気がつきました。 そのキーワードを語らずしてはどうも、この学問の要に触れないのではないか・・・。 そう思ってしまう程に痛烈でありながら、同時に、とても質素なある概念・・・。 私は、無意識を発見したかの偉大なる、心理学者フロイトから「孤独」といわれる、彼の内面を表す言葉と概念とを切り離せないのでした。 私の中では、精神分析の発芽と育成を辿る時、ある日本の古典が想起されてなりません。 吉田兼好の「徒然草」です。 「マンガで読む古典」という番組(であったかと思います)中、かつて、徒然草が取り上げられた際、 次のような書評を聞いた私は、妙に、そのコメントに納得した覚えがあります。 それは、「結局はね、(執筆者兼好)おじさんは寂しかったんだよ〜〜。」といったものでした。 精神分析の擁立過程を知れば、知る程、フロイトに向けても、同じコメントが巡ります。 寂しさのエネルギーでもってして、発展した節もあるのが、精神分析という分野でもあったようです。 そう申し上げてみれば、精神分析に限らずこの世の発展には、人間の寂しさが、一役買っているには違い無いのでしょう。 或は、フロイトや周囲の人間の能力も無視出来ませんし、さすがの私も、寂しさだけが、精神分析を発展させたとは申しません。 しかしながら、人と繋がることに器用なようで、不器用だったフロイト像が、どうにも切り離せない話題なのです・・・。 ウン・・・。おじさんは寂しかったのかもしれない。人間はどこか、寂しいのかもしれない。 その、完全や永久という度合いでは満たされない器が、私たちを動かしているらしい。時代を作っているらしい。そんなことが少しだけ見え始めた、今、このようなサイトを立ち上げてみることにします。 と言っても、フロイトの孤独のみを語るサイトには留めません。 あくまでも導入とするものであり、その切り口を省かないという、製作者側の思いと言いますか、何かこう、フロイトに向ける敬意の表明です。 ところどころ、フロイトの孤独が垣間見える入り口を、文章で散りばめておきますので、関心のあるかたはこっそりと探してみてください。 ところで、あなたは「精神分析擁立と育成のエネルギー」が、フロイトの中で、最も蠢いた時期がどのあたりであるかをご存知ですか? 生涯発達心理学からの視点となりますが、どうも、人生の分岐点となる40代(前後)という年齢にも関わりがありそうです。 ふと思い立ち、「徒然草」の書かれた時期を計算してみました。 当時の吉田兼好は、47歳あたりであることがわかったのでした。 この時期の人間は平均的に、孤独に出会う。そのようにも言われています。
参考文献「精神分析的カウンセリング」 中西信男、葛西真紀子、松山公一 「現代の精神分析」小此木啓吾 フロイトを受け継ぐ者たち晩年、彼の隣で共に歩んだのは、娘アンナ(自我心理学)でありました。 アンナ・フロイトは、父の概念に日常的色づけを加えた他、児童心理学としての体系づけにも力を注ぎました。 孤児院での研究や実験についても、彼女の代より開始されたのでした。 父親が心理的にも踏み込めなかった、母親像への批判という方向からの研究、心の発達問題へも着手していったのでした。 対象関係論の創始とされているメラニー・クラインとは対立しましたが、 この二人に共通していたのは、従来の精神分析学を踏襲する流れでの考察方法でした。 その一方で――こちらの方が知られているかもしれませんが――、フロイトやクラインの知見に批判を加える形で、この分野は広く発展してゆきました。 フェアバーンやウィニコット、エリクソンらが有名ですが、 もはや別分野としての統合に至るアドラーや、ユングの研究もこの学問から、完全には切り離せないのです。 精神分析学とはフロイトの研究のみを指すのではなく、 例えば、発達心理学にまで及ぶ知見をも含む一体系となります。 Copyright © 2009 Sumi all right reserved. |
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よみかたの手引き
![]() 私たち、人間とはどこに向かって歩いているのでしょう。 例えば、一人の人間の人生には何を見出せますか? もちろん、ここの扱いに象徴されるものとは、何よりも、自身に向ける態度でもあるのでしょう。 自分という戦場、そこから抜け出そうとする焦燥感、 若しくはそこを通り越した、感情を鈍磨させる程の諦め等・・。 愛情と呼ばれるものはむしろ、この先に待ち構えていると言います。 人は、時に別離の悲しみを体験します。大切な者同士であればこその、別れというものも経験します。 ここに登場するフロイトの人生は、そのことを示唆してくれています。 しかし、別れの瞬間には酷く信じられないことですが、精神の本質とは、いつかは同じところに辿り着くものです。 訣別を恐れて逃れる心の巧さを財産にしても、大して持つことはできないのと同じです。 よろしければどうぞ迫害を与えるのでも、神格化するのでもなく、 フロイトの埋まらなかった器にほんの一時、思いを傾けていってみてください。 ![]() 今、そこには「自愛」という態度が、温かく置かれているはずです。 |
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